文明と社会を護る科学技術-----技術化社会の暴走を止める

      

 技術の本質と責任倫理

先月のコラムで技術に対する「公的チェック制度」の強化を主張し、またアインシュタインの呻きも紹介したが、そもそも科学技術の本質は何か。

 

 技術は「自然」を対象とする、人間の「知情意の総合」による「構想力」から生まれる。自然分析能力の「悟性」による「知」、快という「感情」、主体的な精神の働きの強い「意志」の3つの総合が、構想力を構成する。したがって技術は単に「目的に対する手段」ではなく、自然と人間と社会の総合化である。

 

 この自然には「無機の自然」「有機の自然」「人間の精神的な自然」が含まれ、これに対応する技術が、それぞれ「物理・化学技術」「生物工学技術」ならびに「精神・心理や記憶に関する技術」だ。さらにこれらを包括する技術が、「生態学的技術」である。

 

 したがって技術は自然の潜在力を引き出し、それにより人間の可能性を高める「巧妙な技」、人間の可能性と自然の可能性をともに伸長する「技」である。これにより自然は人間精神に接近し、逆に精神は自然の中により深く入り込み、自然と人間が融合していく。

 

 本来の科学技術のこのような特質から、我々は「技術に関する責任倫理」を負っている。第一は技術を開発する責任。自然の必然の法則を、人間の目的に向けて利用し、われわれが常に“たくみに生活すべき”という責任である。

 

第二は自然に対する責任。自然はわれわれの観念の中へ導かれて、技術が生まれる。しかしその場合、精神の独断は許されない。同時に自然はその潜在力を発見し、これを実現することを、人間の精神に対して要求する。技術はこのような厳しい法則を受容しながら、この要求を充たすべきである。

 

第三は人間共同生活と自己自身に対する責任。技術進歩によって人間が専門化され、分業を余儀なくされるが、それゆえ各人は協力せざるを得ない。専門化を深めながらも「全人性」を失わないような「協働社会」を形成すべきだ。これを通してヒューマンな関係を確立する責任が求められている。

 

自然と人間のアナロジー

このような責任を遂行するに際して、精神は自然の存在様式に規制されるが、そのためには自然に即した「厳密かつ正確な観察と思考」、および「新しい目的設定」が要求される。自然構造のいっそうの潜在力を認識し、それを高めることが要求される。このような自然の要求に応えるために、われわれは自然に対して「巧妙な問いかけ」をするが、それは悟性の働きに委ねられる。しかし悟性は本来的に単なる分析能力に過ぎないから、これを過信すると、精神の独断に陥る。

 

とりわけ1980年代から急展開した「エレクトロニクス」および「バイオ・テクノロジー」の問題は、広範かつ深刻だ。前者は「手作り技術」や文「化」を侵食し、労働疎外と大量失業を齎してきたが、今後もその可能性は小さくはない。後者の「生命操作」や「遺伝子組み換え生物」も、「バイオ・エシクス」と両立できない問題を引き起こしている。

 

すでに国際労働機関(ILO)の「職場のメンタルヘルスに関する報告書」(20009月)

は、「ITストレス」について次のように指摘した。「アメリカでは生産年齢人口の10人に1人が、イギリスでは10人に3人が『うつ病』もしくは『精神的不調』を感じている。その他ドイツやフィンランド、ポーランドなども深刻で、EUでは『うつ病対策』に毎年、域内GDPの3~4%が使われている」と。

 

他方でOECD(経済協力開発機構)の推計によると、先進諸国平均で、労働人口の1割がAIによって代替され、働き手の6人に1人の5.4億人が貧困に陥る可能性がある。日本では就業者の15%の約1000万人が、AIにより代替されるという。

 

悟性の論理を一方的に自然に照射して「科学主義」に陥ることは、技術の真の姿である「自然と人間のパートナーシップの推進」とは相容れない。自然と人間のアナロジー(相違するものどうしの間で相似点を高めること)を実践するのが真の技術である。その結果、文化が生まれ、人間はますます自然に依存し、自然も人間に接近して、双方とも可能性を高めていく。「自然は賢しらな者を軽蔑し、ちからに充ちた者、真に純一な者にのみ自らを顕し、その秘密を打ち明ける」(ゲーテ)。

 

しかも真の技術はこのパートナーシップの推進だけを使命とするものではない。あるべき「人間協働」の「共同社会」の形成をも課題とする。技術産業の発展に伴って分業が進展したが、その結果、人々は心を通わせるべき「汝の喪失」に直面している。しかし「汝の喪失は自己の喪失」に他ならない(M・ブーバー)。

 

正しい技術を通じて、各人は専門化を深めながらも、お互いに「協力関係・共同社会」を自覚的に形成すべきである。真の技術はこうした社会体制を推進する。以上より明らかなとおり、現政権の「武器の開発と軍備拡張政策」も危険な「原発政策」も、技術の本質と全く相入れないものだ。アインシュタインの呻きが聞こえてくる。

 

科学技術と社会の変革

 こうした技術の本質を熟慮した「技術論」が、すでに1970年代に入ると幾つか展開されてきた。シュマッハ―などの「中間技術」、イリイチの「土地固有の技術(ヴァナキュラー・テクノロジー)」「エコロジー技術」ヘンダースンの「小さい技術」「ソフト技術」などである。

 これらの技術論には次のような共通点がある。第一に現在の技術が大きな副作用を伴い、同時にこの技術社会では人々が自己決定や自己実現の機会を奪われている。それゆえ可能なかぎり副作用のない、省エネ・資源抑制技術、そして自己実現に資する技術であるべきだということである。

 

それゆえ第二に自然や人間に過大な負担をかけずに、我々を手助けする技術である。それは小さい、見透しうる透明的な、生態系を撹乱しない、資源節約的、資源再利用的かつヒューマンな技術でなければならない。今日の技術は巨大な、見透しが難しい、生態系撹乱的、汚染的、資源・エネルギー浪費的、非人間的な技術であるが、これと対照的な技術の主張である。

 

そして第三に、このような望ましい技術と並行する「望ましい社会」の形成を要求する。利潤を極端に追求しない社会、都市と農村の双方の機能を有する、それゆえ「中程度の工業化社会」、地方分権化された小さい共同体が相互に併存する社会を主張する。ここにおいて本当の「文化的成熟」を目指しうる。

 

 これらの主張は、たしかに理想主義的なきらいはあるが、近代文明がもたらした今日の深刻な事態に鑑み、これらを指針として技術も社会も転換を図らなければならない。巨大科学技術からソフト・パスへ、道具的技術と近代科学技術の中間程度の規模と複雑さの「中間技術」へ向けて、技術と社会を早急に変革する必要に迫られている。