昨年に続き、今年も4月にロゴス会および経済学研究会を開催いたします。
予約人数の調整がありますので、下記の出席連絡フォームに3月15日(土)までに
ご回答いただけましたら助かります。
<開催日2025年4月12日(土)>
リンカーンの民主主義定義「人民の人民による人民のための政治government of the people, by the people, for the people」は有名であるが、彼はそれを具体的に次のように述べている。
「政府の合法的活動対象は、人民が行う必要があるのだが、まったく行うことができないでいること、もしくは、彼らのバラバラで個別的な能力ではよくなしえないことである。政府はそのようなことなら何であれ、人民の共同体のために行う。しかし、人民が自身のために個々で良く成しうるところのものについて、政府が介入すべきではない」と。
翻って日本の政治は、この民主主義の趣旨に合っているであろうか。企業の「団体・企業政治献金」「補正予算」および「国の基金」の推移を合わせ考えると、この趣旨に反する事態も想像される。企業献金を慮って「補正予算」や「基金」を作成し、本来は政府がなすべきでない仕事も、かなり実施していると思える。
逆に為すべきことを放置している場合もあろう。補正予算は23年度が13兆円超、24年度13.9兆円と膨らんでいる。また「国の基金」は23年度末18.8兆円で、19年度末から4年間で8倍となった。その基金数は22,23年度が140基金で、198事業を実施してきた。
他方で23~27年度の「防衛費」を従来の1.5倍以上の43兆円とし、そのうち「防衛基金」に2000億円を充てる計画である。それゆえ23、24、25年度の予算で防衛基金に400億円ずつ計上する。しかし「防衛基金」は既に800億円あり、このうち15億円しか使用されていない。
これと類似の事例が他にも見られるが、それらからの「補正予算」「基金」さらには「租税特別措置」などのうちには、特定の政治家もしくは政治派閥に対する「企業の政治献金」や「官僚の天下り先」のための内容が含まれると「邪推」されかねない。
補完性原理と生活インフラ
民主主義とは「支配者と被支配者の一致」(カール シュミット)という趣旨である。したがって中央政府が、なるべく地方政府に仕事を譲り、住民に見える政治とすることが重要だ。それが民主主義の趣旨にかなうゆえ、EUはこの民主主義の趣旨を、「マーストリヒト条約」(1992年発効)に盛り込んだ。それは次の「補完性原理」の盛り込みである。
「家族や自治体など小さな単位に、可能な業務はそれに任せる。大きな単位でなければ不可能なものや非効率なものは、国家やその上のEUの行政が遂行する」という原則である。これは「住民の自立自助の原則」でもあるゆえ、この補完性原理に基づいて「分権化」すれば、真の民主主義の機会が生まれ、同時に法的にも道徳的にも人間の尊重が実現する。また先のリンカーンの民主主義の趣旨にも合致する。
近代社会は「中央集権的国家体制」により、国民経済の発展を促進してきたが、経済がある程度発展してくると、この中央集権体制が逆に経済効率を妨げ、行政効率をも低下させる結果となってきた。それゆえEU諸国は「補完性原理」により、地域の多様性と文化を守り、経済や行政における効率の維持回復を図っている。
日本の現状は八潮市の道路陥没のように、とくに「生活インフラ」の老朽化が、大きな問題である。もはや地方自治体の資金では修繕が不可能なインフラが多く、これに対しては「補完性原理」に従って国家が本格的に介入しなければならない。たとえば全国で77万カ所の橋やトンネルなど「道路インフラ」のうち、約8万か所が、ひび割れや腐敗などで5年以内に修繕が必要だという(国土交通省)。
これらのうち約9割が都道府県や市町村の管理下にあり、「財源不足」や「人手不足」で点検や補修ができない。一般にわが国のインフラは、1960年代~70年代の東京オリンピックと高度経済成長期に急激に創設され、今や半世紀を経て耐用年数を超えているインフラも少なくない。
とくに水道管は55~65年間に敷設され、総延長は72万キロの、およそ地球18週分だ。このうち基幹管路(導水管、送水管、排水本館)の補修が重要であるが、それには50年までに59兆円が必要だという。高速道路、下水道、公営住宅、トンネル、学校など殆どのインフラが、このように耐用年数を超えている。
日本の政治も「は補完性原理」の正しい運用により、早急に「生活インフラ」の点検・補修が不可欠だ。一般に地方自治に対する中央政府の「過剰介入」と、地方政府の中央政府に対する「過剰依存」が問題視されているが、とりわけインフラ問題に関しては双方の厳密かつ緻密な協力関係が不可欠である。
「補完性原理」と「経済社会協議会」による「一般意思」
議会制民主主義は基本的に「自由討論」「全国民の代表としての良心に従う議員」「「多数決」の3つの原理から構成されるが、これによって期待されるのは「一般意思」(ルソー)である。それは「個人的意志」ではなく、それらの総合の「全体意志」でもない。一般意思は、「社会共同体」を前提とし、それが持つ「普遍的な意志」に他ならない。
しかし現実の社会は多数の「利益者集団」に分裂しており、それらが自分たちの利益のために議員を議会に送り込み、議会は「利益の分捕り競争場」の観を呈している。現在の民主主義は、このような「組織化された大衆民主主義」(難波田春夫)に堕している。
しかしこれらの利益者集団の各代表者が、一堂に会して意見を述べ合うならば、おのず妥協も生じ、一般意思も明らかとなってこよう。議会とは別に、そのような「経済社会協議会」を市町村、州や県、国家の各レベルで制度化することが求められる。
この「経済社会協議会制」と「補完性原理」とが結び付けば、「社会共同体の意志」が明らかとなり、「人民の、人民による、人民のための政治」に近づくことができよう。EUは、すでにこうした民主主義制度改革を実行してきた。
日本の深刻な「生活インフラ問題」も、こうした仕組みなしには解決がおぼつかないであろう。他方で国は「地方創生交付金」の2000億円予算を組む。しかし、その26事業において、半分以上も予算が使われていない。国家行政と地方行政とがかみ合っていないからだ。この点だけからしても、補完性原理と経済社会協議会の必要性は明らかである。
ITおよびAIの深刻な側面
トランプ大統領の再選に、世界中の多くの人々が驚いたが、加えてアメリカの幾つかの大手企業がトランプの主張に靡いた。これには恐怖さえ覚え、これらの企業指導者の教養と人格・良識を疑わざるをえない。トランプの「多様性、公平性、包摂性(DEI)取り組みの排除」の主張に、歩調を合わす企業さえ出てきた。
他方でとくにXのイーロン・マスクの言動はもとより、フェイスブックとインスタグラムを運営する米メタ社も、トランプの主張に合わせて、これまでの「ファクトチェック」を止めた。今後フェイスブックやインスタグラムを使うユーザーは、自分でファクトチェックをしなければならないが、それは容易ではなく、今まで以上に誤情報に躍らされる。とりわけ注意すべきは、幾つかの権威主義的な国の指導者が、世界の大衆を不適切なSNS情報で誘導しようとしていることである。
また一般の大衆の中にも、利益を得るために誤情報を流す者が増えている。これによる犯罪も頻発し、他方でこれら情報に責められ、自ら命を絶つ者も増えている。ITおよびAIの普及が目覚ましく、今や、この技術や知識なしに生活も仕事もままならない程であるが、その反面でこのような民主主義の堕落,犯罪、人間の尊厳性無視が際立ってきた。
すでにITが導入された90年代から、「ITうつ病」が急増してきたが、最近はこれに加えて、以上のような民主主義など社会全体にかかわる問題や「AI武器」問題も頻発している。選挙におけるSNS情報の影響も、アメリカや日本ばかりでない。ドイツやフランスのポピュリズム政党の躍進も、これに関係している。
ちなみに日本の10万人当たり自殺者は、ITがほとんど使われなかった94年には16.9人であったが、ITが普及した99年には25人、2004年には27人。さらに98年から2011年の14年間の自殺者(自殺が原因の死亡者総数)は、年平均5万人となった。また今後、先進国労働者の1割が、日本では15%の1000万人がAIにより代替され、先進国の労働者の6人に1人の5.4億人が貧困化するという(OECD)。
アメリカの非営利団体「AI安全対策センター(CAIS)」は「生成AI」が誤情報、文章、音楽や画像などをコントロールすると警告する。そして倫理観や人間の在り方など「文明」をコントロールする可能性と、それらによる「人類絶滅のリスク」を警告した。またEUも「生成AI利用の包括的な規制法」を導入し、G7は巨大AI企業の寡占を阻止すべく「国際行動規範」を合意した。
大学入試科目「情報」追加の検討
ITやAIのこのような潮流に鑑みて、日本でも「大学入学共通テスト」に25年から「情報に関するテスト」を導入した。情報の資質・能力やプログラミング問題などを問う。このテストは国立大学の全部、私立大学の一部も導入しているが、このような大学の姿勢は頷ける面もあるが、これが逆に先のOECDやCAISの懸念につながる可能性も大きい。ちなみに欧州諸国では、中学・高校におけるスマホの使用を禁止している。
すでに20世紀の前半にヤスパースは、近代人の特質を「代替可能性」だと見て、それゆえ人間の尊厳性が失われていくと警告した。産業の展開により、特定の人間だけに限られる仕事が減少し、誰もが可能な仕事が多くなり、したがって人間が別の人間に簡単に置き換えられると警告した。
科学技術の展開がこれを可能にしてきたが、とりわけ情報科学技術の発展は、この傾向を促進して様々な「人間疎外」をもたらす。「人間のコンピューターによる置き換え」も、先のOECDの予測どおりで、先進諸国における自殺者を激増させてきた。またAIの危険性もCAISの懸念のとおりである。
ところで「学問の自由」を憲法で保障し、学生と社会が大学に求めるものは何か。学生は大学で広く学び、世界について理解を深め、生きることの意味を考えるために入学してくる。もっとも社会通念に流されて、将来における成功のパスポートを、漠然と大学に求める学生も少なくはない。
しかし彼らも根源的には「有意義な人生とは」という問いを発しているはずであり、その自覚を促すことが大学の使命である。他方で社会は、大学に「時代に阿ることがない徹底的な真理の探求」を要請している。憲法で「学問の自由」「大学の自治」を保障する意味は、この社会の要請にある。真理探究の衝動は人間の本質であり、社会はこの衝動の充足を大学に求めている。
だがそれは、単なる実用学のみで充足される性質のものではない。社会が求めている真理は、来し方を反省し行く末を見つめる学問、「展開している社会自身の意味付けと方向性」である。要するに大学は「時代の自覚」を、社会から根源的に課せられている。
したがって大学は、人生の意味と社会や世界の動向に絶えず思いをはせ、時代の正しい方向を見定めて、これを主張し実践する人間を育成することが課せられている。我々は近代市民社会の延長線上におり、一方で科学技術の発展によって、未曾有の物的反映を享受しているが、他方で精神ならびに自然に関して著しい危険を背負い込んでいる。
近代文明の危機と情報科学の課題
すでにマックス・ウエーバーは近代文明の展開に対して、悲観的な見通しを吐露した。近代的な合理主義の蔓延により、「個人」は「全人生」を失い「精神なき専門人」「信条なき享楽人」に堕落する。他方で社会においても、官庁ばかりでなく企業その他の組織でも、合理主義による「官僚制」がはびこる。その結果、個人は「官僚制」という機械に、その「部品」として嵌めこまれ、自由を喪失していくと主張した。
ゾムバルトも近代文明に対して悲観的な見解を明らかにしたが、彼は特に「情報社会」の面から、近代人の「自由喪失」を主張している。人々は知識の量に圧倒され、それを内面的に加工しえないため、人々の自由が「理論」の中に閉じ込められてしまうと主張した。
要するに近代人は確かに合理性により、偏見や迷信や因習から解放されたが、他方でこれらに捕らわれていた人々にも増して自由を失うという。まさに今日の情報社会を予測していたかのような結論であった。現在のAIがもたらす情報に関して、我々は「何が真実か」「何が正しいか」を判断不可能なぐらいの状態となってきたゆえ、これに囚われてしまう。
AIは、一個人では判断できない程の「多方面の膨大な情報」から結論を導いてくる。しかしそれは、どのような「価値観」もしくは「視点」から展開されているのか。それを見抜くことが難しくなっている。したがってゾムバルトの主張のように、この情報に縛られるという状況が出現してきた。
最近の論文にも、一般生活の在り方においても、このAIの提供資料を都合よく解釈する傾向が読み取れる。確かにITやAIにより、「スタートアップ」や「オンライン診療」をはじめ従来に無かった多くのプラス現象も生じている。しかし反面で先述の「AI武器」や「知能犯罪」「一方的な好都合な画像制作」をはじめ深刻な問題が野放しとなってきた。先のヤスパースやウエーバーの懸念も、ITやATの展開でいっそう深刻となっている。
ところで先述のとおり「大学入学共通テスト」の科目として、新たに「情報問題」が導入された。現在の社会情勢において、様々な情報とこれに接近する手段が氾濫しているゆえ、この導入は意味がある。しかし、これまで述べた情報の危険性に鑑みて、これを手放しに歓迎できない。
大学は、人生の意味と社会や世界の動向に絶えず思いをはせ、時代の正しい方向を見定めて、これを主張し実践する人間の育成が課せられている。現代においては、この大学の使命を追求するために「情報学習・研究」も重視されるのである。それには「情報一般」および「IT」ならびに「AI」の問題点に関する、十分な考察・研究が欠かせない。