猛省で本来の日本の心と社会へ!

思いやりと一生懸命

  文武天皇以来の天皇即位の宣命に見られる「明(あか)き清き直き誠の心」や「清き明き正しき直き心」さらには聖徳太子『三経義疏』の「清明心」などに、古代以来の人々の心情および生き方が表明されている。それは「思いやり」に満ちた「ひたむきさ」と「純心さ」に満たされ心情と行為である。

 

この日本人古来の「ひたむきさ」や「純心さ」は、すべてに対する「思いやり」につながり、それが「ひたむきさ」「純心さ」をいっそう深めてきた。思いやりは自分の根拠を、自分の中に見ず、思いやりの対象の中に見て、同時に対象の根拠を自分の中に感じる関係だ。この対象はまずは他人であるが、広くは人間に限らず宇宙の万物に対する思いやりである。

 

 

 例えば自然との関係では、自分は自然によって生かされており、自然のより良き展開のために生きるとの「思いやり」である。このように思いやりは、あらゆるものに対する「気配り」「情け」「いたわり」へと展開し、「自然愛」にも達する。そこから「健全な性愛」も生じ、これが「諦観」および「わび」や「さび」の「枯淡趣味」に繋がる傾向も有する。

 

三世の輪廻観と遊芸および賭博

他方で古来の「氏神信仰」や「先祖の死霊および鎮魂」の宗教も、この「思いやり」に満ちた「ひたむきさ」と「純心さ」に満たされた信条に由来する。したがって中国から仏教が入ると、それは古代以来の「清明心」と「もののあはれ」の心情と結びついた。さらに先祖の死霊および鎮魂の信条を介して、「神仏融合」「本地垂迹」が展開された。また古代以来の「清明心」「もののあはれ」の心情が、仏教を「宿世仏教」へと導いた。

 

この「前世・現世・来世の三世の因縁の輪廻観」の「宿世仏教」は、同時に人々に「現世の儚さ、無常」と「浄土信仰」を、さらには仏教の本懐「空」の意識をも広めた。それらが「風流心」や様々な「遊芸」「賭け遊び」にも繋がった。このような心情から室町時代になると連歌 茶道 立花 謡 舞 鼓 焼物など多くの遊芸が確立し、庶民もこれらを楽しんだ。

 

ただしこれらは「もののあはれ」「ひたむき」の意識と同時に、「賭」とも結んだ。それは宿世意識の裏返しで、「前世の因縁で決まっている運」の「運試し」であった。例えば「茶道」の始めは、茶の産地を充てる「闘茶」で「賭け物」を伴った。「立花」はその部屋飾り。同様に囲碁、将棋などの勝負事も「賭」と結び、さらに江戸時代には「丁半賭博」や「花札賭博」へと展開した。

 

ちなみに「パチンコ」の年間総売り上げは、バブル期には30兆円、現在でも2325兆円にも達しているが、世界全体の「カジノの年間総売り上げ」は約15兆円、アメリカのカジノも約7兆円に過ぎない。現在の成人男性の「ギャンブル依存症率」は、日本が6.7%で320万人、オランダ1.9%、フランス1.2%、スイス1.1%と、日本が飛び抜けている。しかしこれも日本の思想展開から理解できる。要するにこのような日本の伝統の「賭け」からして「カジノ法」は極めて問題だ。

 

 不可欠な「我まま・甘え」の構造改革

儒教が広まったのは江戸時代であるが、これも日本古来の「思いやり」に繋がっているから、為政者ばかりでなく庶民に広く波及した。孔子の「一を以(もって)之を貫く、忠恕のみ」や孟子の「惻隠・仁」は、いずれも「思いやり」ということだ。他人に「自分が欲しないこと」施さず、「自分が欲すること」を施すべきという。

 

またこの儒教の教えは、日本古来の「ひたむきさ、純心さ」にも繋がり、それが能楽、弓道、剣道、柔道などの「芸道」の鼓舞にも繋がった。例えば「和弓」は「自己を忘れ、ひたすら周囲の世界との境地妙合」を説く。また世阿弥『風姿花伝』は「声の花、幽玄の花(少年美)は散ってしまうゆえ、誠の花を求めて芸の境地を高めよ」という。

 

ところで中国の儒教は「敬」すなわち「一挙手一投足を理に適うべく敬(つつしむ)」ところの「朱子学」が主流である。しかし日本では、伝統的な「懸命さ」により「誠の儒教」、すなわち「物事に対する誠実さの強調」の儒教が主流となった。そして武士は君主への誠、農民は農作業への誠、町人は商売に対する誠が鼓舞された。

 

さて伝統的な「誠実さ」が、正反対の「我がまま」や「甘え」の心情に繋がる傾向もある。さらに、これらが「経済主義」に繋がっていく。それは「物的豊かさ」と「幸せ」とを同一視する「功利主義」に他ならない。第二次大戦後の日本は、とくにアメリカの「経済主義の傾向」に感化され、「過剰な輸出主義」「大手企業の買いたたき」「派閥裏金政治」「働きバチ」をはじめとする「功利主義」が強まった。

 

これには「誠の儒教」の誠実さも悪影響した。しかしかつての日本は、伝統的な「日本のこころ」の影響から、誠の儒教が広まっても「伝統的な祭り」は当然のこと、日々の生活の中で「ケ」ばかりでなく「ハレ」の要素を取り入れ、「功利主義」一辺倒ではなかった。

 

 

ところが戦後の苦境と経済成長の中で、経済主義」が広まり、人々の生活を味気なくしたばかりか、経済的困窮者をも増大させている。経済主義・功利主義を徹底的に反省し、明治維新と同じような再出発の時、「伝統的思いやり」への再出発の時である。