田村正勝コラム:自己と社会の変革の可能性

人間の遺伝子はほぼ同じ

 46億年前に地球が誕生し、38億年前頃に生命が誕生して遺伝子が生じた。その遺伝子が38億年間、分っているだけでも500万の生物を作り、切れることなく人間の遺伝子へと続いてきた。この38億年間に恐竜、ミミズ、サル、シャケなど動物に限っても、実に多くの生命体が産まれた。しかし、我々はそれらの動物ではなく、人間として産まれたが、このような38億年の遺伝子の連鎖を考えると、自分が人間に産まれたことは奇跡的だと言える。

 しかもこの遺伝子の歴史からして、人間は誰でも99・99%まで同じ遺伝子を持っているという。頭脳明晰、運動神経抜群、知能指数が高いなど様々な人がいるが、実は遺伝子から見ると、皆ほとんど同じ遺伝子を持っている。それにも拘らず、差異が生じるのは、各人が自分の持つ「どの遺伝子」にスイッチ・オンしているかの違いによるという。

 他方で人間の体重1キログラムの中に約1兆個の細胞があり、60キログラムの人は約60兆の細胞から成る。そして、この細胞のどれにも全く同じ遺伝子のセットが入っており、そこに約30億ペアのゲノム(遺伝子情報の全体)が書かれているそうだ。それにも拘らず鼻、口、頭、心臓などそれぞれ異なった器官が成立しているのはなぜか。

スイッチ・オンの違い

 それは鼻の細胞では、鼻の機能に必要な遺伝子だけにスイッチが入っており、口、眼、頭、心臓などいずれも、その機能に必要な遺伝子だけにスイッチが入っているからだ。“彼の心臓には毛が生えているかも?”なんてことはない。もっとも心臓細胞においても、何かの拍子で毛が生える遺伝子にスイッチ・オンされれば心臓にも毛が生えるという。

 では我々のそれぞれの遺伝子に、確実にスイッチを入れる方法はあるのか。これは分かっていない。それを発見すれば、それこそノーベル賞モノであろうが、しかし分らないからこそ様々な人間が存在して面白い。希望すれば誰もが簡単にサッカー選手となり、皆が政治家となり、医者になり、弁護士、会計士、何々博士となれる社会など味気ない。

 けれども遺伝子からして、この可能性は皆に開かれている。思考を深め、運動神経を鍛え、人を思いやる心を養い、苦難に耐え努力する心を育てるなど、誰にでも様々な可能性が開かれている。ただしその方法は明らかでない。しかし遺伝子のスイッチ・オンは少なくとも「気の持ちよう」に、大いに関係していることだけは確かなようだ。これを多くの伝記が物語っている。したがって我々は誰でも大いに希望をもつことができよう。

4つの「出逢いと愛」でオンとオフ

 ところで我々は「気持ち」つまり「心」だけではなく「身体」と「環境」の三つの相互作用によって生活している。この環境には家庭環境、職場環境、地域環境、国家の在り方さらには国際環境などの「社会環境」と「自然環境」の双方があるが、それらのいずれもが個人の生活に大きく影響する。また言うまでもなく身体の調子も生活を左右する。

 このように我々は心と身体と環境の三つの交点で生きているゆえ、これらのいずれかを変えれば、その他の二つも変化する。たとえば家庭環境を変えれば「心」が変わり、それが「身体」をも変える。また身体を鍛えれば、心も変わり、それが環境をも変える。気持ちを変えれば、身体も環境も変わる。

 したがって各人が自分のどの遺伝子にスイッチを入れ、どの遺伝子のスイッチを切るかは、心ばかりでなく身体と環境の在り方にも依存する。望ましい遺伝子にスイッチを入れ、好ましくない遺伝子のスイッチを切るためには、「身体」と「社会および自然の環境」を健全にすることが重要であり、そのためには四つの「逢いと愛」が大切であろう。

 第一は自己愛と自分自身との出逢いで、短時間でもよいから毎日必ず思索や反省の時間をもつ。第二は自然との巡り逢い。意識的に自然に親しむ時間を作り、自然に対して気遣えば、おのずと畏敬の念が生まれる。第三に家族や友人など親しい人と意識的に出逢う。第四に「われわれ」の巡り逢い、つまり小グループ活動、集会やボランティアなどに意識的に参加することが大切である。

 ちなみにルソーの『人間不平等起源論』は、人間は一方で動物と変わるところのない「野蛮な残虐性」を、他方で「社会的道徳性」や「同胞愛」を潜在的に備えているという。そして、これらは全ての人間種族に絶えることなく継続されているが、潜在的なこの可能性は、人間を取り巻く諸条件によって実現されると指摘する。したがって彼は『エミール』および『社会契約論』において、正しい教育と政治の必要性を強調した。