田村正勝コラム:近代文明の崩壊を回避できるか----人類はなぜ、どこへ向かっているか!----

(一)人口減少、民主主義の形骸化、戦争の勃発と継続----シュペングラーの予言

 西欧文明の春夏秋冬を解明した歴史家のシュペングラーは、ちょうど100年前に「現在の文明は19世紀中葉から冬の時代に入っており、大衆は極度の知的生活から不妊症となり、人口減少が持続する。同時に空洞化した民主主義とともに知性が破壊され、21世紀になると無制限な戦争が続き、2200年ごろまでにカエサルが出現して、その後は弱肉強食の先史時代へ逆行する」と予言した(『西欧の没落』ミュンヘン、1917年)。

 

 スマホ生活は、必ずしも知的生活とは言えまいが、たしかに先進諸国は何処でも人口減少が持続している。独身者の割合も多くなり、また、たとえばアメリカでは夫婦の4組に1組が離婚すると言う。日本の離婚率はこれほど高くはないと思われるが、未婚率はかなり高くなり「少子高齢化社会」の進展は世界でトップのスピードである。またシュペングラーの指摘どおりに、少なからぬ国々における「民主主義の形骸化」を目の当たりにし、さらに「無制限なテロの勃発」も常態化してきた。

 

(二)創造は「本質の未来」-----人間は本質を創造できない

 ところで自覚的に行為することは、人間の特性の一つであるが、我々は行為によって何かを創造しうるのか。ドイツの哲学者のハイデガーは行為とは「行為の対象をその本質へと導く」ことだという。対象を本来あるべき姿へと落ち着かせ、その落ち着きによって行為者は充実感を味わう。たとえば画家は対象の本質を表現して、それが世の中にたとえ受け入れられなくても、画家として芸術的満足感に浸りうる。

 

 では本質とは何か。これを具体的に定義し、それを創りだすことが出来るのか。生産(プロダクション)の語源であるラテン語の「生み出す」という語は、「前へ(pro)」と、「導く(ducere)」という語の合成語だ。つまり生産するとは、そのもの本来の本質へ導くことである。

 

 したがって生産においても本質を創造することは出来ない。創造は神だけのものと考えられてきた。われわれの行為はつねに、本来あるべき姿へ、そのものの本質へと導くだけである。かの哲学者はそれゆえ、行為とは「本質の未来」だと主張する。それは行為の対象が、元々ある本質へと立ち返ることの意であろう。

 

(三)人間は「脱自―存在」------橋を渡る存在

 彼はまた人間の本質を「脱自―存在」と捉えるが、人間も「本質へ立ち還る存在」だということである。要するに「現在の自分」から抜け出て、「人間のあるべき姿」へ立ち還る存在が人間だという。実はこれと幾分か異なる意味ではあるが、他の哲学者も「存在の一者」(プロティノス)とか、「同一の永劫回帰、橋を渡り続ける」(ニーチェ)とか、「絶対精神の自己実現」(ヘーゲル)と人間や世界を表現している。

 

 ただし現在の自分から抜け出るとは、現実の自分を否定することではない。逆に現実の自分を通してのみ、「脱自―存在」たりうる。現実の自分がそれ自身で、すでに人間のあるべき姿と関係しているから、現に生活できている。真理と無関係に現実に在るものは何もない。

 我々は真の姿に関わりながら生き、その中で「完全な真の姿」に限りなく接近しようとする。それゆえ人間は「為すがゆえに成り、そのような存在として」生きる。あるいは「在るがゆえに為し、それゆえ成る」といっても良い。いずれにせよ同時的に「為す・成る・在る」としてのみ生きるのが、人間だと言うことである。

 

(四)近代文明の崩壊か?-----人間の不完全さの忘却

 ドイツの哲学的人間学のA・ゲーレンは「人間は他の動物に比して生物学的に劣った動物」だと言う。たしかに動物は、生まれながらにして、自分の生き方を本能的に身につけている。たとえば山羊も馬も産まれ堕ちると母親の乳を吸いに立ち上がるが、人間の子供にはそれは出来ない。人間は他の生物のように、生まれつきの「生きる術」を授かっていない。

 

 つまり人間は不完全な動物であり、欠乏体であり、未だ自分になっていない存在である。しかしこれは否定的な意味ではない。逆にそれゆえに真の自分になるために、常に「現在の自分を超越」していくことが、人間の自然の姿だと言える。それにも拘らず、我々は人間の不完全さを忘れ、神と動物の間の存在であることを忘れて、あたかも「万能な存在」のごとき錯覚に陥りがちだ。

 

 そのために現代人は、本当の「脱自」を忘れ、一方で自然を破壊し、他方で人間の感性や感情を希薄化させて、「機械的な技術文化」の中に硬直する傾向を強めている。ITやスマホ、遺伝子操作、原発、化学・生物・核兵器など多様な科学技術の中で、我々は飽食暖衣しているが、いつの間にか自然が自然でなくなり、人間が「人でなし」となってしまう恐れなしとしない。
 

(五)道徳の回復と日本のエコノミック・アニマル

近代社会の歩み

 西欧の中世社会までは「身分と職分を守れ」という支配者の「命令」に従うことにより、「社会秩序」が保たれてきた。それゆえorderには「命令」と「秩序」の二つの意味がある。これは東洋でも同じだ。日本では天皇の「宣命」に従うことにより、社会秩序が維持されると考えられていた。つまり天皇の宣(のり)が「法(のり)」となり「則(のり)」となって、社会の法則・秩序が維持されると言うことであった。

 

 しかしヨーロッパでは市民革命により、誰もが「分」から解放され「自由」になった。けれども革命の熱狂から覚めてくると、果たして「個人の自由」と「社会秩序」とが両立可能かという疑問が生じた。この問題に対して、多くの思想家がチャレンジしたが、当時の人々を納得させ得たのは、アダム・スミスの「道徳哲学」だけであった。

 要するに近代文明はアダム・スミスの「道徳哲学」が明らかにしたとおり、“自由経済が宗教から解放され、道徳、法、政治からも順次解放されることにより、「個人の自由」と「社会の秩序」との両立が可能となる”という確信で展開され始めた。

 

 しかしこの文明の展開プロセスは、スミスの道徳哲学の逆を辿って、自由経済が先ず法律を導入することにより、19世紀の経済発展が可能となった。しかし自由経済は1929年からの「大恐慌」をもたらし、それ以来「経済政策」や「社会政策」などの政治を要請し、そして道徳を導入するという過程を踏んできた。

 とりわけ1970年代になると「経済発展による自然破壊」が明らかとなり、さらに90年代に入るとITの導入から少なからぬ人々の精神が破壊され、「うつ病」や「勤務自殺」が蔓延してきた。近年の日本の「勤務自殺者」は毎年2500人ほどに達する。それゆえ、ここに至って企業の「コンプライアンス(法令遵守)」をはじめ「道徳」が重視されるようになってきた。自然環境に配慮し、また労働法制等を遵守するなど「企業の社会的責任」が問われるようになっている。

 

社会的責任投資----道徳の回復

 ところで社会的責任を果たしている企業の株式だけを購入するところの「社会的責任投資(SRI)額」が、いまや世界の全株価時価総額の50%にも達した。これは05年時点でイギリスが22.5兆円、アメリカが274兆円、世界全体が350兆円で全株式市場の7.5%ほどとなった。そして13年には1326兆円(13.26兆ドル)、14年には2328兆円(21.36兆ドル)で、世界の全株式時価総額の50%ほどに急成長している。

 

 ところが残念ながら日本の投資のこの割合は13年時点でも0.2%弱と極めて小さく、合計8577億円にすぎない。依然として日本のいわゆる「エコノミック・アニマルぶり」が面目躍如だ。要するに「社会的責任投資」の対象となる上場企業が少なく、また投資家の意識も高くないと言うことである。

 このような「投資家や大手企業経営のエコノミック・アニマル主義」が、同時に急激な格差社会を形成してきた。16年末には、日銀とGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)による“アベノミクス忖度”の株価吊り上げ策、つまり「官製株価」の愚策もあり、日本の家計の金融資産が1800兆円と過去最高となった。ところが2人以上の家庭で預貯金を保有していない家計も、全体の33.4%と過去最高となっている。この割合は87年時点では3.3%に止まっていたのである。

 

 ちなみに日本の「パリ協定」参加の顛末に見られるとおり、日本の「温室効果ガス削減対策」も極めて消極的であるが、これも政府と財界の道徳観の欠如、エコノミック・アニマルぶりを示している。京都議定書では「CO2を90年比6%削減」を謳い、EUはこれを実現したが、日本は現在では同比14%も増やしてしまった。

 

(六)宗教の意味と影響の熟慮----形而上的な思考の回復

 ところで先のシュペングラーは西欧文明について、栄枯盛衰の春夏秋冬を説いたが、トインビーは『歴史の研究』において、西欧文明ばかりでなく多くの文明についての「興亡盛衰」を研究した。そして文明の「挑戦」と「応戦」および「親文明」と「子文明」の関係を明らかにし、その関係のポイントが宗教にあることを指摘している。

 

 このトインビーの考察と、今述べた近代文明のこれまでの展開からして、道徳の次に回復されるのは宗教であると推測できよう。もっともこれは、誰もが何らかの宗教を信仰すると言う意味ではなく、宗教や神話が社会に及ぼしてきた、或いは及ぼしている意味を熟慮し行動すると言うことである。そしてトインビーの言うところの「普遍的な宗教」さらには「人間の普遍性」に思いを馳せ、人々がこれを重視しなければ、社会秩序もおぼつか無くなった。

 

 近代文明は「合理主義」の文明である。しかし人間の思考は必ずしも合理的な思考だけではない。ニコラウス・クザーヌスが明らかにしたとおり、我々は「極めて具体的な事柄」を考えると同時に、抽象的な形而上的な事柄を思考する。たとえば一方で夕飯の惣菜を考え、他方で神や真善美聖などの価値について思う。思考はそのように両極を“行き来する(discursus)”が、ちなみにこのラテン語discursusが、論説などの意味の英語discourseの語源である。

 

 さて具体的な事柄に関しては合理的な思考が先導する。したがって合理主義の近代文明は、主として具体的な事柄に、それゆえ合理的な「科学的思考」に委ねられた。しかし形而上的思考が消滅したのではない。それは「哲学」や「宗教」として我々を支えてきたが、これらの思考は、表舞台では科学の“後塵を拝して”きた。

 

 けれども今日の近代文明の危機に遭遇して、形而上的思考の重要さが再確認され始めた。これはトインビーの指摘を待つまでもなく、今日の世界的なテロをはじめ世界平和を攪乱している事態を突き詰めて、少なからぬ人々が“宗教の文化や平和に対する影響と意味”を熟慮し始めている。シュペングラーの不吉な予言が外れることを願うならば、それは不可欠であろう。

 

 ユングは合理主義の限界を明らかにして“人間の行動を駆り立てる根本的なものは、合理性ではなく「無意識の非合理な衝動」だ”と主張した。このユングの心理学も、本論の「宗教の回復」を暗示していると思われる。