早稲田大学の使命-----学の独立と大学人の協働


(一)建学の精神「学の独立」の忘

(1)アメリカ従属的な政策---バブル経済の始発要因

 早稲田大学の建学の精神は「学の独立」である。大隈侯は「学問の独立が国の独立に繋がる」と主張されたが、これは現在でも妥当する格言である。とくに1980年代以降の問題の多い政策が、逆説的にその重要さを示している。

 

 かつてのバブル経済の始発要因も、アメリカの要求に沿った中曽根内閣の対応であった。アメリカ企業が中国に進出する「金融基地」を東京に置くために、東京のインテリジェント・ビルの値段を下げさせる要求をしてきた。中曽根内閣はこれに応えて、「都心再開発策(アーバンルネッサンス計画」(1983年)を導入した。

 

 ところが86年以降になると日本の貿易黒字が毎年600~900憶ドルで、それが円に替えられたから、円札は毎年10%以上の増発行であった。この状況における都心再開発は、東京の地価の高騰をもたらし、これがバブル経済の始発要因となって、全国の地価と株価の高騰となった。このバブルで「地価」と「株価」は、合計1000兆円以上も跳ね上がった。しかし当然にも1991~93年の間にこれが崩壊したが、1990~94年間に「地価と株価の資産価値下落合計額」は1100兆円にも達した。

 

 こうした状況下で1993年の「宮沢・クリントン会談」を契機に、94年からアメリカは毎年、日本政府に広範な「年次改革要望書」を提出し、日本政府はこれを忠実に実行してきた。たとえば郵政の民営化、金融グローバル化、株価の時価評価、特定機密保護法など、いずれもこの要求に沿った政策である。

 

(2)不良債権の増大・建築偽装・財政赤字  ----アメリカの『年次改革要望書』による

 2001年からの「銀行の不良債権の直接償却」も、アメリカの要求によるものであった。銀行は返済の難しい企業に対する融資を打ち切り、融資の担保物件を取り上げて換金し、これを銀行の資産とするという方法である。その結果、担保物件の「投げ売り(バルクセール)」となった。結局のところ≪不良債権の直接償却⇒土地と株式の投げ売り(バルクセール)⇒地価と株価の暴落⇒優良債権の担保不足化⇒優良債権の不良債権化⇒本来ならば優良企業であった企業の倒産≫となった。ちなみに当時に日経平均は7000円台へと暴落している。

 

 日本の銀行はもともと融資に対する「貸し倒れ引き当金」を積んで、できる限り倒産させないように、時間をかけて不良債権の処理をするところの「間接償却」を採っていた。これが直接償却に切り替えられたために、逆に優良債権が不良債権化した。直接償却が始まる前の2001年3月の不良債権は43.5兆円であったが、この処理によって2002年3月には52.4兆円に増大している。そして政府は、この問題を解決するために「公的資金38兆円」を注ぎ込んだ。

 

 あの2005年に始まる「建築の偽装問題」も、年次改革要望書に基づいて「建築基準法」を変え、その基準を「様式基準」から「性能基準」に変えたことに由来する。また「医療改革」も「TPP」もアメリカの要望書に沿ったが、アメリカはTPPには参加しない。さらに「法制度」の変更による「ロースクール」の設立も同様であり、アメリカ企業が日本に進出するために、弁護士を増やすように要望した結果である。しかし今日では弁護士資格を取得しても、仕事にありつけない有資格者が増えている。

 

 他方、先進諸国で最悪の日本の財政赤字も、日米構造協議に関連している。アメリカは日本の輸出を抑えるべく、日本に対して1991年には10年間で430兆円の、95年には同じく10年間で630兆円の公共投資をすることを要求し、日本政府がこれにかなり応じた結果が、最悪の「GDPの2倍以上財政赤字」をもたらしている。さらに北朝鮮に対する外交も、アメリカに合わせた無分別な危険な強硬策であり、その結果、今や日本だけが現状に乗り遅れている。

 

(二)学問の反省と社会の要請

(1)学の独立

 なぜ日本政府はこれほどまでに、アメリカの属国的な政策を採るのか。その大きな理由の一つが「学の独立」ができていないことである。現在の財界、産業界のトップの人たち、あるいは官僚や政治家、政府の審議会メンバー、大学の教員、マスコミ関係者たちの多くが、アメリカ流のエコノミクスをはじめ米国流の実学を勉強し、ほとんどそれ一辺倒の人たちが多い。

 

 したがってアメリカのいう「グローバル・スタンダード」は「アメリカン・スタンダード」にすぎないのに、それを「グローバル・スタンダード」として受け入れてきた。ここに「学の独立が国の独立に繋がる」という格言は、逆説的に如実に現実的となっている。外国の学問をただ受け売りするのではなく、それらを批判的に受け入れるべきであるが、その姿勢に欠けている。

 

(2)社会の要請と自己の陶冶----カオスの光となる学問

 この「学の独立」は徹底した真理の探究であり、「学問の自由」の本質である。後者を憲法に謳うのは、時代におもねることのない徹底した真理の探究を保障するためである。いかにグローバル化が進展しようと、また企業をはじめ社会制度が変わろうと、否、社会がそのように翩々きわまりないがゆえに、社会自身が「変わらぬ普遍的な真理」を、本来的に大学に要請している。

 

 人間の思考は、生活の中の具体的な日常的な諸問題を考えざるを得ないが、他方で真善美聖をはじめとする形而上的思考「普遍的な真理」に思いを馳せる。中世末の哲学者のN.クザーヌスは、思考のこのような徘徊を「discursus」と呼んだが、これが論説や討論を意味する英語の「discourse」の語源である。したがって、たしかに「実学」も必要であるが、他方で社会は実学には求めることができない「普遍的な真理」を求めている。

 

 この「普遍的な真理の探究」こそが、来し方を反省し行く末を見きわめ、社会自身の意味付けと方向を指し示しうる「一条の光」となる。これに欠ける学問は、たとえそれがグローバル化や合理化あるいは企業利益に適応しようと、所詮は時代の激流に飲み込まれる根無し草にすぎない。

 

(3)広義の学問と自己の陶冶

 ところで近代の社会科学はイギリスの「道徳哲学」、フランスの「社会哲学」、ドイツの「法哲学」などの「総合的学問」に由来するが、「近代的合理主義」が、これらを「社会諸科学」に分け、さらに細分化し、自然科学と同様に「専門特化」させた。そしてそれぞれの分野において「最適化」を目指している。しかしこれらの最適化が集合すると、自然環境の破壊に象徴されるように「合成の誤謬」に陥る。

 

 1970年代の初めにK.ボールディングは「宇宙船地球号」の沈没を危惧して、「悪魔は部分の最適化だ」と喝破した。また、それ以前にK.ヤスパースは、学問を「専門特化の狭義の学問」と「広義の学問」とに分けて、前者は断片的体系にすぎず、人間の「陶冶」には役立たないゆえ、広義の学問が不可欠だと指摘した。それは「普遍的な理念」に基づく「広義の学問」にほかならない。それゆえ専門特化された学問も、常にこの理念を念頭に置くべきである

 

 さて今日の多くの学生は、大学の大衆化にともない就職のパスポート、将来の成功のパスポートを大学に求めている。しかし、より根源的には「有意義な人生とは」という問いを発し、そして「自己の陶冶」のために入学したはずだ。この自覚がない学生には、これを自覚させるべきである。そしてこれに応えられる「普遍的な真理」を探究することこそ大学の使命である。早稲田大学の「学の独立」の焦点も、ここに絞られ、そのための「学生と教員および職員の三位一体の共同体」を持続することこそが、早稲田大学の使命である。