文明の危機と「老春」----コロナ禍が促す近代文明の転換

生物学的に劣る存在の人間

 中国の医学は3500年、インドの医学「アーユルヴェーダ」は4000年の歴史をもち、また古代ギリシャ医学が基礎となりアラビア世界で体系化された「ユナニティブ」は3000年ほども遡ることが出来る。そしてこれら伝統医学に二つの共通点が見られるという。ひとつは、身体だけでなく「心身統一体」としての人間を問題にする。もう一つは、「医術は病気に罹らないこと」をいっそう重視する点だ。そのために身体の自然の免疫力を問題とし、気功やヨガその他の健康法を編み出した。

 

 今日のコロナ・ワクチンは、どうか。直接的にはコロナに罹らないようにする手段であるが、他方で「心身の統一体」である人間全体を問題としていよう。それは身体の自然の治癒力の利用だが、加えて「自分」のためだけでなく、社会に迷惑をかけないように「社会全体」のためにワクチンを打つ。他人に対する「思いやりと感謝」の念からのワクチン接種である。これは、「心身統一体」としての「人間性」や「精神」の発揮だ。

 

 ところでゲーレン(A.Gehlen)は「人間は衝動に満ち、これに感化されやすい動物で、しかも生まれながらにして自分の行動原理を知らない、生物学的に劣った動物」だという。たとえば山羊も馬も生れ落ちたら、自ら母親の乳を飲みに立ち上がる。人間にはそれはできない。

 

他方でマックス・シェーラー(M.Scheler)は、「肉体に担われた精神が、肉体の必然性を変容させる」ところに人間の本質を見た。たとえば喉が渇いて水分が欲しいが、他人の畑のスイカを盗って食べることはしない。人間は衝動に感化されやすい面があるが、精神がこれを抑制する。それは誰もが一人では生きられず、社会の世話になっていることを意識しているからだ。さらに「共生の喜び」を知り、日々これを求めて精神的な成長を心掛けている。

 

自然との繫がりと近代文明の影

自分の命は自分個人のモノだけではなく、家族や地域あるいは企業をはじめ、広くは過去から将来にまでつながる社会全体の一コマだという自覚に立つ。たとえば自分の命は先ずは父母に拠るが、それだけでなく祖父母にも関係している。こうして20代さかのぼると、自分の命に148万人以上、27代さかのぼると1億3421万人以上の先祖が関係しているという。

 

また人間の命は先祖や社会だけでなく、自然の恩恵に拠ってもいる。スピノザ(B.Spinoza)は「自然を創るところの自然(能産的自然)」を説く。この能産的自然が、人間を含むすべての自然(所産的自然)に、生き生きとした力を与えているという。シェリング(F.Schelling)も、人間を含め一切の個々の自然を創造する「自然の無限の力」を説く。要するに人間は、自然の中に抱かれ、その恩恵によって生かされている。また江戸前期の儒学者である貝原益軒の『養生訓』も、「天地の万物を生じる『自然の気』の生命力、この根元の気つまり『元気』を養う」ことだと説く。

 

近代文明は人間の営為によって、これらの自然の力の「生態系」を攪乱してきた。猛省すべきであろう。科学は「自然を支配する技術の最適化」を、企業は「効率・利潤の極大化」を、生活は「安逸便利快適さ」を追求している。そして社会は「モノの豊かさ」と「幸せ」とを同一視する「経済主義」に走り、「自然と共に生きる喜び」を喪失して、異常な競争社会「競争相手に勝つ喜び」に走りがちだ。

 

コロナ禍を機に、方向転換を図るべきである。この近代文明が追い求めるモノは、自分の死を思えば実に空しいが、コロナ禍は死を身近に感じさせる。 我々は常に死に直面しているが、近代文明は、日頃はこれを忘れさせている。死を避けられないということを、心に思い忘れないことが重要である。

 

生涯青春----青春と老春

仏教の「念死」(摩訶般若波羅蜜経やヨーロッパ中世の「メメント・モリ(死を忘れるな)」は、常に死を思い浮かべて、「ただ今現在を精いっぱい生きよ」と説く。そして「生涯青春」の気概、「全てとの共生」の喜び、「精神的充足」の深まり、そして最終的に「自然界」に往って生きる「往生」を説く。

 

さて人生100歳時代、尊敬する諸先輩を拝見してきたところ、往生の前に「老春」もあると思われる。「生涯青春の気概」で「老春」を享受して「往生」する。一般に「老」の字には「練れる」「味わいがある」「深みがある」という意味がある。良い友人は「老朋友(らおぽんゆう)」で、良い酒は「老酒(らおちゅう)」だ。

 

したがって「老春」は、練れていて味わい深く、情け深く楽しいであろう。仏教が説く「欲界(よっかい)」「色界(しきかい)」「無色界(むしきかい)」の三界を流転し、澄んだ境地に辿り着き「往生」へと歩む。

 

青春まっただ中の青年は、希望に胸を膨らまして目一杯の努力を続け、「後生畏るべし」と言われる。将来の大成を期待されるからだ。他方で孔子は自分の人生を省みて『論語』で、「人生五十にして天命を知る」と言い、それを「知命」と呼ぶ。しかし『淮南子』では「行年五十にして四十九年の非を知り、六十にして六十化す」という。それゆえ人生五十は「知非」に過ぎず、六十になればまた変わるという。

 

 

けれども『論語』は、六十歳になると、他人の意見にも素直に耳を傾けられる「耳順」になり、七十歳では「従心」で、「心の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず」だと言う。まさに「老春」である。もっとも40年ほど前に難波田春夫先生は「今では不惑は六十、知命は七十、耳順は八十、従心は九十」と言われた。人生100歳時代となった現在、果たしてどうか。