ロシアと日本のエートス----ウクライナ問題に寄せて

 ロシア正教と大衆のエートス

 ロシアおよびソ連の歴史を、とくに対外関係において辿ると、西に進出するか、南下進出か、あるいは東方進出など、常に領土拡張的であり交戦も多い。今回もクリミア自治共和国を編入し、さらにウクライナに進出している。こうした状況を見ると、多くの人々は、司馬遼太郎の「ロシアの原風景」に頷くであろう。

 

 司馬遼太郎は『坂の上の雲』を執筆するに当たり、8年ほど「ロシア」について考え続けて、次のような「ロシアの原形」(『ロシアについて---北方の原形』文春文庫)を明らかにした。いわく「外敵を異様に恐れるだけでなく、病的な外国への猜疑心、潜在的な征服欲、火器への異常な信仰」だと。

 

 確かにこうした見方は、とりわけロシアの政治や外交さらには若干の権力者を見る限り、否定し難い面もある。しかしこれがロシア民衆の一般的傾向であろうか。そのような習性から、あのような素晴らしいシャガール(ベラルーシ出身)その他の絵画や、チャイコフスキー、ラフマニノフなどの音楽やクラッシック・バレエ、トルストイやドストエフスキーなどの文学をはじめ、素晴らしい芸術や文学作品が生まれるだろうか。

 

 ちなみにシャガールの絵画は、封建時代の「ミール共同体」に関するスラブ民族の思い出を描いているという。ミールは「ロシア正教の同胞愛」に裏付けられた「農村共同体」である。全農民が私有地を持たず、家族の人数に応じて村有の土地が割り当てられ生活する。その運営は、村民全員参加の決議に拠る。

 

 ロシア正教(ギリシャ正教)は原始キリスト教にちかい宗派であり、何よりも「隣人愛・同胞愛」に徹する。フランス革命の「自由・平等・友愛」のスローガンがロシアに入ってきたとき、それらは隣人愛のエートス(習性)に従って、「自由とは共同体のためにつくして自己犠牲を払うこと」だと解釈された。

 

また「平等」とは同胞愛に基づく経済的平等、「友愛」は連帯の絆に基づく大衆が全体として「ツァー(皇帝)から解放されること」だと解釈された。こうしてみると後の「社会主義」の実現は、初めから約束されていたとも言えようか。それはともかくロシア正教の「隣人愛」と並ぶもう一つの教義は、「現世を軽んじて自己の内心においてひたすら神を求める」というものである。

 

ロシアの自己犠牲・メシア観

このように隣人愛と、神を追求して内心に鎮静するという教義から、さらに大衆は政治的関心が薄く、政治を軽視する傾向となりがちだ。そして自己の内面に沈潜して、内面の表現である芸術に向かう。このような大衆の政治的無関心からスターリンの独裁政治が生まれ、また無理の多い社会主義体制が革命以来70年も続いたのであろう。

 

しかし大衆は、他方で「隣人愛・同胞愛および自己犠牲・奉仕」のエートスに基づく「国際平和」をも掲げる。そして「友愛・奉仕の原理に結ばれた理想的な世界」を創り、世界を「救済する」ことこそが、スラブ民族の使命だと覚悟する。このようなロシア大衆の「メシア観」は極めて強く、そのためには武力行使をも辞さない。先に触れたソ連の東方、西方、南下の交戦の背後にも、このようなエートスがあった。

 

したがって司馬遼太郎の「火器への異常な信仰」という観察も首肯できる。強力な「メシア的使命感」ゆえに、命をとして戦うべきだという強力な観念であるが、それだけに世界や、とりわけロシアの周辺諸国には、世界平和に関する難しい外交が課せられる。当面の問題では、ウクライナに武器を供与すれば出口が見えるなどという事態ではない。これはロシア大衆のエートスに対する無知であり、事態を一層悪化させる。

 

嘗て本欄で述べたように、親ロシア派が多いウクライナ地域を、ロシアに併合するのではなく、ウクライナ領の中の「自治州」とすることを、国連が戦争終結のために、ロシアとウクライナの大衆に提案すべきだ。そしてプーチンとゼレンスキーを説得する。他方でウクライナをNATOに加盟させないことをも明言する。国連のこの表明によって、ウクライナ侵攻は「スラブのメシア的使命感」と無関係な「臆病なプーチンの野望」に過ぎないことを、ロシア大衆に理解させられる。そえゆえ終戦へと導くであろう。

 

日本の通奏低音「思いやり」

日本は古来より中国、インド、朝鮮、西洋などの思想や文化を取り入れてきたが、それらを日本流にアレンジしている。そのアレンジに共通な、言わば「酵母菌」もしくは「通奏低音(basso ostinato 執拗低音)」がある。それが日本古来の心情の「思いやり」だ(大塚宗元『日本の心 東洋の心』経済往来社)。ロシアにも通奏低音があり、それが「隣人愛・自己犠牲のメシア主義」であるならば、それに正しく訴えてウクライナ戦を終結させることが出来よう。

 

ところで日本思想の底流には「思いやり」と並んで、「天地自然の生成発展の自ずからからなる理法」を尊び、これに従う心情が流れている。例えば儒教を「天の道を教えるもの」として受け入れ、治者の倫理・道徳を示すものとして説いた。また庶民は「天地不書の教」(二宮尊徳)として、自然を尊重した。これらは「人と自然に対する思いやり」の情に発している。さらに大乗仏教は、個人の内面における超越「自然への内在的超越」の教えとして流布され、「草木悉皆成仏」をも説く。

 

さて「思いやり」はこのように人に対しても、自然に対しても向かうが、思いやりが「甘え」に繫がると「自分かって・我がまま」となる。これが現在の「日本の経済主義」や「環境汚染」を齎した。他方で「思いやり」は「人に対する情け」に向かい、それは健全な「性愛」もしくは不健全な「色好み」にも繫がる。さらにこれは「諦観」へ、そして「わび・さび」の枯淡主義や、幽玄の世界に繫がる可能性もあると言う(大塚宗元『日本の心 東洋の心』)。

 

日本の「思いやり通奏低音」から、やがて現在の経済も政治も大きく転換することを期待したい。これまでの「経済主義」や「営利主義」は「情けなしの仕業」の結果である。それは、世界に対する「思いやり欠如」の「ソーシャル・ダンピング」をも齎したらした。これが長期不況の原因に繫がっている。これらを大手企業も「パートナーシップ構築」など、漸く反省し始めているが、さらに日本の「通奏低音」に届くまでの反省と実行が不可欠だ。

 

他方で政治とりわけ防衛や外交も、「思いやり」を基本とする交渉でなければならない。しかし現在は「防衛力増強・敵基地攻撃能力」など身勝手かつ危険な路線に向いている。けれども「太平洋戦争」への道と、現在の「ウクライナの悲劇」を正しく反省し、古来の「本来の思いやり」に合致する政治外交を目指すべきである。

 

また「原発再開・運転規制の緩和」の政策も、福島の原発事故や日本の地震地層および防衛の諸点から、より根本的には日本古来の「人と自然に対する思いやり」の観点から、抜本的に再考すべきだ。他方ですでに社会においては「ボランティア」が活発になるなど、本来の「思いやり通奏低音」が多く奏でられている。

 

 

*本論と227月のコラム「ウクライナ考-----チキン・レースか人命尊重か」とを合わせてお読み

  頂ければと思います。