ITおよびAIの深刻な側面
トランプ大統領の再選に、世界中の多くの人々が驚いたが、加えてアメリカの幾つかの大手企業がトランプの主張に靡いた。これには恐怖さえ覚え、これらの企業指導者の教養と人格・良識を疑わざるをえない。トランプの「多様性、公平性、包摂性(DEI)取り組みの排除」の主張に、歩調を合わす企業さえ出てきた。
他方でとくにXのイーロン・マスクの言動はもとより、フェイスブックとインスタグラムを運営する米メタ社も、トランプの主張に合わせて、これまでの「ファクトチェック」を止めた。今後フェイスブックやインスタグラムを使うユーザーは、自分でファクトチェックをしなければならないが、それは容易ではなく、今まで以上に誤情報に躍らされる。とりわけ注意すべきは、幾つかの権威主義的な国の指導者が、世界の大衆を不適切なSNS情報で誘導しようとしていることである。
また一般の大衆の中にも、利益を得るために誤情報を流す者が増えている。これによる犯罪も頻発し、他方でこれら情報に責められ、自ら命を絶つ者も増えている。ITおよびAIの普及が目覚ましく、今や、この技術や知識なしに生活も仕事もままならない程であるが、その反面でこのような民主主義の堕落,犯罪、人間の尊厳性無視が際立ってきた。
すでにITが導入された90年代から、「ITうつ病」が急増してきたが、最近はこれに加えて、以上のような民主主義など社会全体にかかわる問題や「AI武器」問題も頻発している。選挙におけるSNS情報の影響も、アメリカや日本ばかりでない。ドイツやフランスのポピュリズム政党の躍進も、これに関係している。
ちなみに日本の10万人当たり自殺者は、ITがほとんど使われなかった94年には16.9人であったが、ITが普及した99年には25人、2004年には27人。さらに98年から2011年の14年間の自殺者(自殺が原因の死亡者総数)は、年平均5万人となった。また今後、先進国労働者の1割が、日本では15%の1000万人がAIにより代替され、先進国の労働者の6人に1人の5.4億人が貧困化するという(OECD)。
アメリカの非営利団体「AI安全対策センター(CAIS)」は「生成AI」が誤情報、文章、音楽や画像などをコントロールすると警告する。そして倫理観や人間の在り方など「文明」をコントロールする可能性と、それらによる「人類絶滅のリスク」を警告した。またEUも「生成AI利用の包括的な規制法」を導入し、G7は巨大AI企業の寡占を阻止すべく「国際行動規範」を合意した。
大学入試科目「情報」追加の検討
ITやAIのこのような潮流に鑑みて、日本でも「大学入学共通テスト」に25年から「情報に関するテスト」を導入した。情報の資質・能力やプログラミング問題などを問う。このテストは国立大学の全部、私立大学の一部も導入しているが、このような大学の姿勢は頷ける面もあるが、これが逆に先のOECDやCAISの懸念につながる可能性も大きい。ちなみに欧州諸国では、中学・高校におけるスマホの使用を禁止している。
すでに20世紀の前半にヤスパースは、近代人の特質を「代替可能性」だと見て、それゆえ人間の尊厳性が失われていくと警告した。産業の展開により、特定の人間だけに限られる仕事が減少し、誰もが可能な仕事が多くなり、したがって人間が別の人間に簡単に置き換えられると警告した。
科学技術の展開がこれを可能にしてきたが、とりわけ情報科学技術の発展は、この傾向を促進して様々な「人間疎外」をもたらす。「人間のコンピューターによる置き換え」も、先のOECDの予測どおりで、先進諸国における自殺者を激増させてきた。またAIの危険性もCAISの懸念のとおりである。
ところで「学問の自由」を憲法で保障し、学生と社会が大学に求めるものは何か。学生は大学で広く学び、世界について理解を深め、生きることの意味を考えるために入学してくる。もっとも社会通念に流されて、将来における成功のパスポートを、漠然と大学に求める学生も少なくはない。
しかし彼らも根源的には「有意義な人生とは」という問いを発しているはずであり、その自覚を促すことが大学の使命である。他方で社会は、大学に「時代に阿ることがない徹底的な真理の探求」を要請している。憲法で「学問の自由」「大学の自治」を保障する意味は、この社会の要請にある。真理探究の衝動は人間の本質であり、社会はこの衝動の充足を大学に求めている。
だがそれは、単なる実用学のみで充足される性質のものではない。社会が求めている真理は、来し方を反省し行く末を見つめる学問、「展開している社会自身の意味付けと方向性」である。要するに大学は「時代の自覚」を、社会から根源的に課せられている。
したがって大学は、人生の意味と社会や世界の動向に絶えず思いをはせ、時代の正しい方向を見定めて、これを主張し実践する人間を育成することが課せられている。我々は近代市民社会の延長線上におり、一方で科学技術の発展によって、未曾有の物的反映を享受しているが、他方で精神ならびに自然に関して著しい危険を背負い込んでいる。
近代文明の危機と情報科学の課題
すでにマックス・ウエーバーは近代文明の展開に対して、悲観的な見通しを吐露した。近代的な合理主義の蔓延により、「個人」は「全人生」を失い「精神なき専門人」「信条なき享楽人」に堕落する。他方で社会においても、官庁ばかりでなく企業その他の組織でも、合理主義による「官僚制」がはびこる。その結果、個人は「官僚制」という機械に、その「部品」として嵌めこまれ、自由を喪失していくと主張した。
ゾムバルトも近代文明に対して悲観的な見解を明らかにしたが、彼は特に「情報社会」の面から、近代人の「自由喪失」を主張している。人々は知識の量に圧倒され、それを内面的に加工しえないため、人々の自由が「理論」の中に閉じ込められてしまうと主張した。
要するに近代人は確かに合理性により、偏見や迷信や因習から解放されたが、他方でこれらに捕らわれていた人々にも増して自由を失うという。まさに今日の情報社会を予測していたかのような結論であった。現在のAIがもたらす情報に関して、我々は「何が真実か」「何が正しいか」を判断不可能なぐらいの状態となってきたゆえ、これに囚われてしまう。
AIは、一個人では判断できない程の「多方面の膨大な情報」から結論を導いてくる。しかしそれは、どのような「価値観」もしくは「視点」から展開されているのか。それを見抜くことが難しくなっている。したがってゾムバルトの主張のように、この情報に縛られるという状況が出現してきた。
最近の論文にも、一般生活の在り方においても、このAIの提供資料を都合よく解釈する傾向が読み取れる。確かにITやAIにより、「スタートアップ」や「オンライン診療」をはじめ従来に無かった多くのプラス現象も生じている。しかし反面で先述の「AI武器」や「知能犯罪」「一方的な好都合な画像制作」をはじめ深刻な問題が野放しとなってきた。先のヤスパースやウエーバーの懸念も、ITやATの展開でいっそう深刻となっている。
ところで先述のとおり「大学入学共通テスト」の科目として、新たに「情報問題」が導入された。現在の社会情勢において、様々な情報とこれに接近する手段が氾濫しているゆえ、この導入は意味がある。しかし、これまで述べた情報の危険性に鑑みて、これを手放しに歓迎できない。
大学は、人生の意味と社会や世界の動向に絶えず思いをはせ、時代の正しい方向を見定めて、これを主張し実践する人間の育成が課せられている。現代においては、この大学の使命を追求するために「情報学習・研究」も重視されるのである。それには「情報一般」および「IT」ならびに「AI」の問題点に関する、十分な考察・研究が欠かせない。