民主主義制度の展開と深刻な生活インフラ問題

民主主義の基本原理と日本の政治?

リンカーンの民主主義定義「人民の人民による人民のための政治government of the people, by the people, for the people」は有名であるが、彼はそれを具体的に次のように述べている。                               

 

「政府の合法的活動対象は、人民が行う必要があるのだが、まったく行うことができないでいること、もしくは、彼らのバラバラで個別的な能力ではよくなしえないことである。政府はそのようなことなら何であれ、人民の共同体のために行う。しかし、人民が自身のために個々で良く成しうるところのものについて、政府が介入すべきではない」と。

 

 翻って日本の政治は、この民主主義の趣旨に合っているであろうか。企業の「団体・企業政治献金」「補正予算」および「国の基金」の推移を合わせ考えると、この趣旨に反する事態も想像される。企業献金を慮って「補正予算」や「基金」を作成し、本来は政府がなすべきでない仕事も、かなり実施していると思える。

逆に為すべきことを放置している場合もあろう。補正予算は23年度が13兆円超、24年度13.9兆円と膨らんでいる。また「国の基金」は23年度末18.8兆円で、19年度末から4年間で8倍となった。その基金数は2223年度が140基金で、198事業を実施してきた。

他方で2327年度の「防衛費」を従来の1.5倍以上の43兆円とし、そのうち「防衛基金」に2000億円を充てる計画である。それゆえ232425年度の予算で防衛基金に400億円ずつ計上する。しかし「防衛基金」は既に800億円あり、このうち15億円しか使用されていない。

 

 これと類似の事例が他にも見られるが、それらからの「補正予算」「基金」さらには「租税特別措置」などのうちには、特定の政治家もしくは政治派閥に対する「企業の政治献金」や「官僚の天下り先」のための内容が含まれると「邪推」されかねない。

 

補完性原理と生活インフラ                           

民主主義とは「支配者と被支配者の一致」(カール シュミット)という趣旨である。がって中央政府が、なるべく地方政府に仕事を譲り、住民に見える政治とすることが重要だ。それが民主主義の趣旨にかなうゆえ、EUはこの民主主義の趣旨を、「マーストリヒト条約」(1992年発効)に盛り込んだ。それは次の「補完性原理」の盛り込みである。

 

 「家族や自治体など小さな単位に、可能な業務はそれに任せる。大きな単位でなければ不可能なものや非効率なものは、国家やその上のEUの行政が遂行する」という原則である。これは「住民の自立自助の原則」でもあるゆえ、この補完性原理に基づいて「分権化」すれば、真の民主主義の機会が生まれ、同時に法的にも道徳的にも人間の尊重が実現する。また先のリンカーンの民主主義の趣旨にも合致する。

 

 近代社会は「中央集権的国家体制」により、国民経済の発展を促進してきたが、経済がある程度発展してくると、この中央集権体制が逆に経済効率を妨げ、行政効率をも低下させる結果となってきた。それゆえEU諸国は「補完性原理」により、地域の多様性と文化を守り、経済や行政における効率の維持回復を図っている。

 

 日本の現状は八潮市の道路陥没のように、とくに「生活インフラ」の老朽化が、大きな問題である。もはや地方自治体の資金では修繕が不可能なインフラが多く、これに対しては「補完性原理」に従って国家が本格的に介入しなければならない。たとえば全国で77万カ所の橋やトンネルなど「道路インフラ」のうち、約8万か所が、ひび割れや腐敗などで5年以内に修繕が必要だという(国土交通省)。

 

 これらのうち約9割が都道府県や市町村の管理下にあり、「財源不足」や「人手不足」で点検や補修ができない。一般にわが国のインフラは、1960年代~70年代の東京オリンピックと高度経済成長期に急激に創設され、今や半世紀を経て耐用年数を超えているインフラも少なくない。

 

 とくに水道管は5565年間に敷設され、総延長は72万キロの、およそ地球18周分だ。このうち基幹管路(導水管、送水管、排水本館)の補修が重要であるが、それには50年までに59兆円が必要だという。高速道路、下水道、公営住宅、トンネル、学校など殆どのインフラが、このように耐用年数を超えている。

 

 日本の政治も「は補完性原理」の正しい運用により、早急に「生活インフラ」の点検・補修が不可欠だ。一般に地方自治に対する中央政府の「過剰介入」と、地方政府の中央政府に対する「過剰依存」が問題視されているが、とりわけインフラ問題に関しては双方の厳密かつ緻密な協力関係が不可欠である。

 

「補完性原理」と「経済社会協議会」による「一般意思」

 議会制民主主義は基本的に「自由討論」「全国民の代表としての良心に従う議員」「「多数決」の3つの原理から構成されるが、これによって期待されるのは「一般意思」(ルソー)である。それは「個人的意志」ではなく、それらの総合の「全体意志」でもない。一般意思は、「社会共同体」を前提とし、それが持つ「普遍的な意志」に他ならない。

 

しかし現実の社会は多数の「利益者集団」に分裂しており、それらが自分たちの利益のために議員を議会に送り込み、議会は「利益の分捕り競争場」の観を呈している。現在の民主主義は、このような「組織化された大衆民主主義」(難波田春夫)に堕している。

 

 しかしこれらの利益者集団の各代表者が、一堂に会して意見を述べ合うならば、おのず妥協も生じ、一般意思も明らかとなってこよう。議会とは別に、そのような「経済社会協議会」を市町村、州や県、国家の各レベルで制度化することが求められる。

 この「経済社会協議会制」と「補完性原理」とが結び付けば、「社会共同体の意志」が明らかとなり、「人民の、人民による、人民のための政治」に近づくことができよう。EUは、すでにこうした民主主義制度改革を実行してきた。

 

日本の深刻な「生活インフラ問題」も、こうした仕組みなしには解決がおぼつかないであろう。他方で国は「地方創生交付金」の2000億円予算を組む。しかし、その26事業において、半分以上も予算が使われていない。国家行政と地方行政とがかみ合っていないからだ。この点だけからしても、補完性原理と経済社会協議会の必要性は明らかである。