議会制民主主義の危機を乗り越えられるか!

各国で広がる国民の「政治意識の分断化」

 ドイツではチューリンゲン州、ザクセン州などの旧東ドイツ地域の州において、右翼政党の「AfD(ドイツのための選択肢)」が第一党となり、国政でも第二党となっている。ドイツは「ナチス」の歴史から「右翼主義」に対する警戒感が強いにも拘らず、何故か。

 

 ドイツにおける旧東ドイツ人口は、ドイツ全体の20%だが、旧東ドイツ出身のエリート層は全体の12%に過ぎない。これも影響して東ドイツ出身の人々は、「2級市民」のごとく扱われている意識が強い。他方でドイツ国民の中には、「EUの押し付け規制や官僚制」に反発する人々もいる。これらから右翼・ポピュリスト政党の台頭となっている。

 

 フランスも「与党連合政権」が推奨した「EUのグローバル政策」から、地方の工業や農業が疲弊したとも言われる。したがって困窮住民は「再分配重視」の左派政党に靡き、フランス国民会議で「左派政党連合」が最大勢力となった。他方で逆に「自由市場・小さい政府・排外主義」の右派政党も対抗している。

 

 このようなドイツやフランスと同様にオランダでも、国民の政治意識が、右派政治と左派政治とに分裂気味である。またイギリスは2016年にEUから離脱(ブレグジット)したが、それはサッチャー政権らの「新自由主義政策」で、生活困窮高齢者が増えたからだ。しかし彼らはその大きな要因を、外国人移民が増えて「社会保障」が減少した故だと捉えた。

 

そこでEUから離脱して、この移民を抑制することを望んだ。だがイギリスの若年層の7割以上が、46歳以下全体でも60%超がブレグジットに反対し、イギリスの国民の意識も分断された。アメリカも同様な分裂が、さらに進むであろう。無謀なトランプSNS政治の「外国人に対する規制強化」「大幅減税」「関税強化」「大学規制」などの政策から、これも必定だ。

 

またルーマニアでは有力視されていなかった候補が、第1回「大統領選」では、SNSによる「不公平な宣伝活動」「民族主義的で反欧米的なメッセージ」の拡散により、首位に立ったという。けれども、この選挙は「憲法裁判所」で無効にされた。このように世界では至る所で、国民意識の分断が生じている。

 

健全な民主主義のためにSNSの規制を!

 さて日本はどうか。今回の参議院選挙において、「外国人優遇の排斥」を唱える政党が、存外に伸びた。この政党や「日本人ファースト」に靡く政党は、SNSで「外国人が優遇されている」という虚偽を流し、所得格差に不満を抱く層の共感を得ている。そのような低所得者は6000万人ほどゆえ、この党はそうしたプロパガンダで支持者を得やすい。

 

ちなみに首都圏地域ではマンション価格が高騰しており、外国人の高級マンションの売買も盛んとなっている。それゆえ「外国人のマンション売買の規制」の主張も、彼らの共感を得られやすい。他方で米トランプもSNSなどで「秘密組織(影の政府)の解体」という虚偽主張を流して、支持者を増やした。

 

このようにSNSによるポピュリズム・プロパガンダが、世界の至る所で出現し、民主主義を脅かしている。その結果ドイツなどでも、本来ポピュリズム的でない穏健政党までが、それに引きずられ、政党の主張を変更する傾向さえ出てきた。

 

かつてアーノルド・トインビーは≪もう民主主義はお仕舞で、このままだと独裁制が登場する≫と述べた(若泉敬『未来を生きる---トインビーとの対話』毎日新聞1971年)。また「文明の春夏秋冬説」のシュペングラーも、トインビーに先立って≪空洞化した民主主義とともに「知性」が破壊され、21世紀になると無制限な戦争が続く。そして2200年頃までにカエサルが出現し、弱肉強食の「先史時代」に逆行する≫と予言した(『西欧の没落』ミュンヘン1918年)。

 

このシュペングラーやトインビーの警鐘内容が、現代世界の目前に迫っている。これを回避することは出来ないのか。政治および民主主義の「あり方」の根本的再検討が必要だが、先ずはSNSを規制することが不可欠である。EUはすでにこの対策を導入している。

 

EUは23年に「欧州アルゴリズム透明センター(ECAT)」を立ち上げ、SNSの仕組みが偽情報の拡散に繋がらないか監視する。またSNS運営会社に、「透明性や責任ある対応」を義務づける「デジタルサービス法(DSA)」を24年から施行している。

 

これは日本でも喫緊の課題だ。SNSにおける誤情報や非難によって、窮地に追い込まれ自殺した人々もいる。また選挙に際して、特定の政党や候補者に関する「虚偽や真偽不明の情報」が流され、これが選挙結果に大きく影響する事態もある。したがって日本でもEUレベルのSNS規制を、早急に導入すべきだ。

 

不可欠な経済社会協議会制度

民主主義の起源は古代ギリシャの「直接民主主義」である。それは「ポリス共同体」を前提とし、いわばポリスの普遍意思である慣習法「ノモス」に基づいて、具体的な設定法「テスモス」を決める手段であった。したがって民主主義は共同体と結合して、個人の意思はノモスに服従しなければならなかった。

 

ところがプロタゴラスなどソフィストが現れ、ノモスも人為的な相対的なものであるから、必ずしもそれに服従する必要はなく、「人間こそが万物の尺度」だと主張した。ソクラテスやプラトンは、この思想の危険性や民主主義の危機に対して、「哲学(フィロソフィア)」を説いた。しかし結局のところ、ギリシャ民主主義は崩壊した。

 

今日の民主主義は、「自由討論」「議員は全国民の代表としての良心に従う」「多数決」の3原則から成り、これによって得られる結論は「一般意志」だということである。一般意志は各人の「個別意志」でも、それらの合計の「全体意志」でもなく、共同体を前提とした「共同体の一般意志」(ルソー)である。共同体が本来有する意思であり、これが自由討論の民主主義制度により明らかとなるゆえ、全員がこれに従うべきだということである。

 

したがって民主主義は原理的には、片足を自由主義に置き、もう一方の足を「共同体主義」に乗せている。けれども今日の民主主義は、もっぱら利己主義的自由主義原理に偏って、「組織化された大衆民主主義」(難波田春夫)に変質している。利害を共にする人々どうしの「利益者集団」が、国会の場を自分たちの「パイの収奪場」にしている。

 

他方で利己主義的自由に解き離れた現代人は、SNSその他で不安を感じている。したがって何らかの団体に所属し、拘束されることを無意識に望んでいる。それゆえ「利害関係」なしに、大衆が「集団宗教」(ヴィラール)を求める傾向もあり、これも社会的分断に繋がる。

 

先述のごとく自由主義諸国の民主主義に分断傾向が強まってきたが、その根本的理由は、「利己主義的自由主義」の推進、さらには無意識的な「集団宗教」傾向である。これらが国民の「共同体意識」を弱体化させ、さらには破壊している。したがってこの民主主義は、ギリシャの民主主義と同様に、またシュペングラーやトインビーの予言どおり「独裁政治」に頽廃する可能性を否定できない。

 

いまやEU諸国も「組織化された大衆民主主義」と「政治的分断的状況」であるが、しかし、多くの国はこれを修正すべく「経済社会協議会制度」を導入している。それぞれの組織の代表者が一同に会し、重要な問題ごとに「公開の場」で話し合い、「集団エゴ」を解消して「共同体の一般意志」を見極める制度だ。日本でも最低限、このような「経済社会協議会制度」の早急な導入が不可欠である。